『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』※ネタバレあり

Xでも暴れましたが、何となく自分の中で考えがまとまってきたので、一つの区切りとして、掲載してみます。
勢いのまま書き殴ったので思いっきりネタバレしています。
どうか、作品をご鑑賞頂いてからお読み頂ければと思います。
“フォリ・ア・ドゥ”ネットからの引用になりますが、「フランス語で「2人狂い」を意味し、1人の妄想が他の人に感染して同じ妄想を共有する精神障害の妄想性障害を指す。兄弟姉妹や夫婦など密接な関係にある2人が同時に精神障害の症状を発症することを指す」。
自分なりにかなり大雑把に纏めてしまえば、今作は“フォリ・ア・ドゥ”の過程を経て、メインタイトルである“ジョーカー”の真の誕生を描く作品です。
前作『ジョーカー』は確かに、ジョーカーというキャラクターのオリジンを描いた作品でしたが、どこか納得のいかない部分もあった作品でした。
鑑賞中や鑑賞直後は自分自身がアーサー・フレックという一人の男に共感して、彼がジョーカーに成った瞬間に拍手喝采な気分になってしまったからこそ、鑑賞後しばらくしてから、「とはいえ、コイツがジョーカーでいいのか」と思ってしまいました。僕がジョーカーというキャラクターの神格化や、DCコミックスの世界観を尊重し過ぎているのかもしれませんが、僕の中でのジョーカーは自身の狂気に忠実に、くだらないイタズラのような犯罪から、猟奇殺人、大量の犠牲者を出すテロリズムまでありとあらゆる犯罪を犯す正に“犯罪界の道化王子”という称号が相応しいヴィランなのです。しかしアーサーのジョーカーというDCコミックスを代表するスーパーヴィランとしてはあまりにも常識の範囲内に収まってしまったと感じました。
アーサーのジョーカーもDCコミックスの看板が付いた“ジョーカー”というキャラクターならば、彼は2作品を通して登場しないバットマンが出現するゴッサムシティの住人であり、バットマンの宿命の相手となる存在です。前作ではジョーカーになったアーサーの行いによってバットマンが生まれるという因縁のようなものが描かれました。『バットマン キリング・ジョーク』のようにバットマンの行いによってジョーカーが生まれるという因縁の逆パターンであり、それはそれでオタク心でニヤリとしてしまったのですが、アーサーのジョーカーは余りにも筋の通った“弱者の怒り”を纏ったキャラクターであり、僕は彼の“狂気”を見つけることが出来ませんでした。バットマンは両親を犯罪者に殺されてしまったトラウマと怒りが狂気にまで昇華されてしまいました。だからこそ彼は犯罪者に“恐怖”を与えることに拘り、蝙蝠のコスプレをして夜な夜な犯罪者をボコボコにするヴィジランテになったと僕は解釈しています。正気が勝っていたならば、ブルース・ウェインとして犯罪撲滅の為に活動することに重点を置いたり、自警団として活躍するにしても、アニメーション映画『バットマン マスク・オブ・ファンタズム』で描かれていたように、もう少し常識的な服装で活動することを踏み止まれていたのではと考えてしまいます。マスク・オブ・ファンタズムでも、ブルースが蝙蝠のコスプレをする切っ掛けは、常識的な服装では犯罪者に恐怖を与えられないというものでした。そんな狂人としてのバットマンと相対するには、アーサーのジョーカーでは存在が希薄過ぎるように思えてしまったのです。極端なことを言ってしまえば、『ジョーカー』の時点で自らを虐げてきた者達への復讐を終えてしまった彼が、次に何かをしでかすイメージが湧きませんでした。
前作ラストシーンの描写から、実際にあの世界でのジョーカーのオリジンの描いた作品ではなく、クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』でのジョーカーが語る“傷の話”のように、ジョーカーが語る数多ある自分のオリジンを題材にした、ジョークの一つという結論で自分の中で一先ず落ち着けました。
そして、今作。
オチを先に言ってしまいますが、今作は“ジョーカー”になれなかった男の物語でした。前作で徐々に奪われていった“アーサー・フレック”としての人間性を取り戻していく物語とも言えます。そして、アーサーがアーサーに戻った結果、真のジョーカーが誕生してしまったのです。
アーサーの弁護士は、看守から意地悪をされるアーサーを気遣い、法廷戦術の一環とはいえ、“ジョーカー”をアーサーから切り離し、アーサーとして無罪を勝ち取るよう彼を説得します。意地悪をする看守達も、内心では見下しているのかもしれませんが、それを露骨に表出するようなことも無くアーサーが気の利いたジョークを話すと煙草をあげるような一面があったり、難癖をつけて暴力を振るうような理不尽な扱いはしません。冒頭の刑務所での一連のシーンは鑑賞前に予想していた、刑務所での理不尽なシゴキや、周囲との軋轢と違いすぎて、逆に不安になってしまいました。このまま行けば、アーサーは心優しい“アーサー・フレック”に完全に戻れていたのかもしれないと思えてしまう程です。
しかし、“アーサー・フレック”よりも“ジョーカー”を求める者達がそれを許しませんでした。レディー・ガガ演じるリー・クインゼルを始めとする、“ジョーカー”のカリスマ性に狂信してしまった人間達はひたすらにジョーカーの活躍を求めます。
アーサーのまま彼女達に接してしまったが為に、彼はジョーカーに向けられている好意や崇拝をアーサーに向けられているものとを混同してしまいます。リーや崇拝者達からしてみれば、アーサーが人間性を取り戻していっている事など、知りようが無いし、知りたいとも思っていないでしょう。彼女達が求めているのは、あの夜の暴動を起こし、社会的強者に牙を剥く弱者の代表としての“ジョーカー”でしか無いのです。アーサーがこれまでの人生で、歪んだ母親以外からの愛情を受け取っていれば、そのことに気がついたのかもしれません。しかし、そうではないアーサーはより耳障りが良い言葉を囁やき、即物的な快楽や、優越感を与えてくれる“ジョーカー”としての自分を再び呼び戻してしまいました。“ジョーカー”という妄想から抜け出そうとしていたアーサーはリーや崇拝者達により再び妄想の中に引きずり込まれてしまったのです。
そして、彼自身もジョーカーという内面を完全に取り戻そうとした時、ジョーカーをアーサーに戻してしまう2つの出来事が起こりました。刑務所内で自分と性交を行ったリーの妊娠と、裁判の証人として現れた小人症のピエロ仲間ゲイリーとの再会です。
自分の遺伝子を受け継いだ存在がこの世界に生まれ出で、自分が父親になる。ありとあらゆる存在が自分を虐げてくる世界の中で、同じく虐げられているという暗い共感ながらも、対等に接することが出来た人物からの“ジョーカー”という存在への拒絶。2つの大きな切っ掛けに加え、“ジョーカー”として放った言葉に対する、看守達からのそれまでの関係性からは余りにも落差の大きい暴力による私刑行為。
父になるという、動物的な本能と人間性の根幹を揺さ振る出来事。強者に対する怒りをぶつけるカリスマ性の鎧である“ジョーカー”を拒絶する自分が心を通わせた弱者の存在。怒りをぶつける側の存在だった“ジョーカー”にぶつけられ、最悪の形で波及してしまった他者からの怒りとそれに対する恐怖。これらの出来事がアーサー・フレックから“ジョーカー”という内面を完全に奪い去ってしまいました。“ジョーカー”としての自分を受け入れてくれたであろう者達からもアーサーは必死に逃げ出します。アーサーは“ジョーカー”に対する「愛している」という言葉を拒絶したのです。そして、愛した女性にもう一度アーサー・フレックとして向き合おうとした時、彼女はアーサーという男を冷たくあしらってしまいました。あくまでリーが愛したのはジョーカーであり、アーサーでは無かったのです。
ラストシーン。刑務所に戻ったアーサーは囚人仲間の男に刺殺されました。そして、その男はアーサーを刺した後に、凶器を使って自らの口元に傷をつけているらしき描写があります。彼こそがこの世界における、狂気を纏った“犯罪界の道化王子”真のジョーカーだったのでしょうか。アーサーは死に至り、映画はエンドロールを迎えます。
「結局、アーサーはジョーカーでは無かった。世界から虐げられてきた心優しい一人の男は、何者にもなることが出来ないまま冷たい通路で一人孤独に死んでいった」
エンドロールを見ながら泣いていました。何でこんな残酷な終わり方が出来るのだろう。確かにアーサーは何人もの人を殺した。報いを受けることは因果応報で納得出来るが、せめて“ジョーカー”として終わらせてやることだって出来たんじゃないかと思ってしまい、本当に嫌な気分になりました。
しかし、この結末を考える中で、あることに気づき納得した部分がありました。
先の前作を扱った文章で、「ジョーカーに成った」という表現を使いました。しかし今作を観るまではスーパーヴィラン ジョーカーの誕生を描いた作品だと思っていた前作の時点で、アーサーはDCコミックスを代表するヴィランであるジョーカーには成れていなかったのではないかと思いました。
これまでのジョーカー達と違い、アーサーが“ジョーカー”になる過程の中でアーサーの肉体が不可逆的に変容することが無かったのです。
これまで様々な作品に登場したジョーカー達は外見において不可逆的な変容を負っていました。薬品によって白く変色した肌や緑色に変色した髪、引き攣り笑いのままで固定れてしまった表情。『ダークナイト』のジョーカーは髪は染めて、白い肌もメイクによるものでしたが、口元から笑みを浮かべているように見える傷が入っており、それは一生消えない傷に見えます。それと比較するとアーサーは顔にメイクを施し髪を染めただけでした。今作で特に顕著ですが、メイクの有無が“ジョーカー”か否かという線引きであり、彼にとって“ジョーカー”という存在はそこに踏み込んでしまえば、二度と戻ることができない深淵ではなく、取り外し可能な仮面のようなもので、メイクを落とせばいつでもアーサーに戻ることが出来るという程度のものだったのではないかと思ってしまいました。であるならば、『ジョーカー』というタイトルで描かれたのは哀れな男がジョーカーになり損なった物語であり、DCキャラクターとしてのジョーカーの物語を描く為には、今作のエンディングは逃れようが無かったのかもしれません。
『ジョーカー』完成時に監督のトッド・フィリップスや主演のホアキン・フェニックスがどのように考えていたかはわかりませんが、奇しくも僕の今の感想は1作目を観た時と同じ地点に着地しようとしています。
『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』は1作目、2作目と別々の作品ではなく、2部作としてジョーカーの語る、自身の出自に対するあまりにも質の悪いジョークだったと思うことで今の自分を納得させています。
今後、考えも変わるかもしれません。
その時はまた書いてみようかと思います。
長々と失礼致しました。
『スリー・ビルボード』のこと(ネタバレ有り)
だいぶ時間が経ちましたが、自分なりに『スリー・ビルボード』を鑑賞した感想や感じたことを書いていきたいと思います。
ストーリーや登場人物の背景等にも触れるのですが、全く知識を入れずに鑑賞した方が確実に面白い作品ですので、その部分だけご留意ください。
この作品の大まかなストーリーは、レイプされ焼死体として発見された少女の母親が一向にに進まない地元警察の捜査に業を煮やし、町の外れに三枚の広告を出したことから起った一連の出来事となっています。
メインで描かれるのは、被害者の母親であるミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)、地元警察の署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)、そして彼の部下である巡査のディクソン(サム・ロックウェル)の三人の登場人物。
この三人が事件にどう関わり、どういった顛末を辿るかということが話の主筋になっている。
大まかな感想を言ってしまうと、こんなにも鑑賞していて感情をぐちゃぐちゃにされた映画も久しぶりだった。
とにかく、話が進んでいく方向が見えない。どのように進行し、どこに着地するのかまったく予想が出来なかった。
最初、ミルドレッドが町の外れに看板を設置するところから始まり、彼女と地元警察のやり取り、ウィロビー署長の個人問題、ディクソンに起きた出来事、そして事の始まりであるレイプ殺人犯探し。
これらがある程度順番通りに進行していくのだが、それを織り成す登場人物全員が多面的過ぎるほど様々な面を有している。
ミルドレッドは、娘を殺された母親だが、その悲劇性を描き消してしまうほど激情にかられ、時に子供への暴力すら辞さない。しかし、一人の女性として内面的に脆い部分もあるし、夫と別れ一人残された息子を愛する心優しい母親の一面も有している。
ウィロビー署長は、一見田舎の警察の高圧的で怠惰なボスのように映るが、職務に忠実で、家族や部下を愛している。ディクソンが抱えているものを理解し、その感情をどう処理していくか、光明を与え彼の運命を大きく変えていく。だが、"癌による余命宣告"という大きすぎる個人問題を抱えている。家族のことを思い、美しい思い出と共にこの世を去ることを選ぶ。だが、彼が最後に見せた、意地の悪い"茶目っ気"。あの一点で、私はこのウィロビー署長は、決して単純な善人では無かったのだと思い知らされたように感じた。
そして恐らく作中で一番の人間的変化を見せるディクソン。最初の印象はこの男が一番最悪に見える。粗暴で怠惰。暴力的で差別的。おまけに教養が無く、頭の回転もいまいち。警察に対抗したミルドレッドを目の敵にし、妨害として彼女の同僚を逮捕勾留までしたりする。しかし彼が他者に対して攻撃的なのは、自身が抱える“同性愛者”というコンプレックスによるものだった。世界的にLGBTへの理解が深まったと言っても、アメリカには依然としてそういったものへの無理解と偏見や差別が蔓延している。ましてや、アメリカの片田舎。村社会が形成されているあの町では、ディクソンのカミングアウトは致命的なものになりかねない。
それ以外の人々もそれぞれがそれぞれに内面の多様性を持っている。ミルドレッドの息子は穏やかでいき過ぎた行動をとる母親を時に疎ましく感じながらも、その母親を守る為には父親に包丁を向ける。そのミルドレッドの元夫は、彼女に対しては暴力をふるいながらも時に愛情を見せ、別居していた娘や新たな恋人とは良好な関係を築いていたらしい。小人症の男は恋愛に対する不器用さやコンプレックスを見せつつも、自分を侮る者に対しては劇中の誰よりも誇り高い態度を示して見せる。ミルドレッドの気持ちを大きく変えるある言葉は、ずっと頭が弱いと言われていた元夫の新たな恋人が放ったものだ。
人は誰しも、良くも悪くも他人には決して見せない多面性を抱えている。私だって親しい人はおろか、家族にだって見せない、見せたくないものを抱え込んで生きている。しかし、それは何らかの出来事を通して突然表出することがある。これまで隠されてきた内面が暴かれた時、周囲の人々はどう影響され事態はどう変遷していくのか。
また、この映画は人が罪を犯してしまう時の動機が様々な描かれ方をする。
最も多いのは激情に駆られることによるものだが、その激情も、復讐心によるものや、激しすぎる悲しみ、酒に煽られた結果など様々だ。
それ以外にも恋愛感情によるものや、単純な敵愾心が登場する。
そして、劇中最も悪質な罪を犯すある男。この男は非人道的で同情の余地も無いような描かれ方をするのだが、彼が罪を犯した場所が話をややこしくする。“国家機密になるような、砂っぽい場所”。そう、イラクの戦場だったのだ。
どのような状況だったのかは全く説明されないが、以前鑑賞したブライアン・デ・パルマ監督の『リダクテッド 真実の価値』という映画を思い出した。
イラク戦争でアメリカ軍兵士が14歳の少女を集団強姦し、家族もろとも虐殺し、遺体を焼いて証拠の隠滅を図ったマフムーディーヤ虐殺事件を基にした映画だ。要するに、この男がしたことは、恐らくそれだったのだ。戦場という特殊な環境が男に罪を犯させたのか、それとも元々そういった性質の男だったのか。その動機は一切示されることはない。
結局誰がミルドレッドの娘を殺したのか。それは判らないまま映画は終盤を迎える。物語を通して、一貫した姿勢を貫いたミルドレッドと最も大きな変化を遂げたディクソンは、共に先に言及したある男を殺す為の旅に出る。その男は確かに罪を犯している。だが、その一件は二人にとっては完全に無関係なことだ。果たして、この計画に意味はあるのか。最後のセリフ。この映画は安易に答えなど出さない。
『道々考えればいいのよ』
結論は急がなくてもいい。この続きは鑑賞した者がそれぞれに考えればいいのだ。